大山街道 〜その5〜 【2013年9月10日】
さてさて、二子橋のたもとから始まったこの大山街道のぶらり散歩も、もう5回目となりました。
まだこの先に名所がいくつかありますので、もう少し先まで進んでみようと思います。
今回は当院、溝の口カイロプラクティック院のある「溝口駅入口」交差点から大山街道をさらに進んで行きます。
溝口神社
南武線の踏切の方向へ進んでいくとすぐ右側に溝口神社の鳥居が見えてきます。
溝の口界隈では一番大きな神社ではないでしょうか。
神社の創立年代は定かではなく、当時は赤城社と称する社名だったそうですが、明治維新後、神仏分離の法により、溝口村・下宿・中宿・上宿・六軒町・六番組の各部落を統合、総鎮守として祀るべく新たに伊勢の神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称し、明治六年(1873年)幣帛共進指定村社に列せられたそうです。
そして、こちらにも恒例となった川崎歴史ガイドが立てられていました。
溝口神社と簡易水道
赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、
ようやく完成させた簡易水道の時代。参道わきの水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る。
とありました。
宗隆寺
再び大山街道へ戻り、先に進むと右側に宗隆寺へ向かう小道があります。
その入り口には川崎歴史ガイドが建てられていました。
宗隆寺と御会式
日蓮宗のこの寺では、御会式が古くから行われ、その賑いは、池上本門寺に次ぐという。今も十月二十一日の夜、近くの寺や講中から担ぎ出された万燈が、灯りの列を作って集まってくる。
とありました。
この小道をまっすぐ進んでいくと、立派な山門があります。その山門には「興林山」とあり、正式には「興林山宗隆寺」というのだそうです。
何か聞きなれない気もしますが、○○山というのは山号といって、はるか昔に日本史で習った記憶のある「比叡山延暦寺」や「高野山金剛峰寺」という言い方を聞くと、なるほどと思います。
この宗隆寺、古くは天台宗で本立寺と称していたそうです。
ところが住職と地頭が見た不思議な夢を池上本門寺上人に伝え相談したことから、1496年に日蓮宗に改宗し、宗隆寺と寺号を改めたとの伝えがあるそうです。
左の写真は本堂になります。
また、この宗隆寺には益子焼で人間国宝となった陶芸家の濱田庄司のお墓があり、その説明もありました。
濱田庄司は明治27年(1894年)に、この溝の口(当時は神奈川県橘樹郡高津村)に生まれ、父方は「溝ノ口の大和屋」という江戸時代から続いた菓子舗で、母方、太田氏も藩医を努めた溝の口の旧家でした。
後に陶芸家として世に出た濱田庄司は栃木県益子に窯を築き「世界の濱田」と称えられる活躍をされましたが、本籍地は生涯「溝ノ口672」のままでした。
優れた業績と現代陶芸界にあたえた大きな影響力により人間国宝の指定、文化勲章の受章など栄誉をうけられましたが、川崎市においても郷土の生んだ偉大な芸術家として川崎文化賞を受賞されています。
栄橋
再度、大山街道に戻り、右方にさらに進むと「栄橋」交差点に出ます。
大山街道と交差している道は「南武沿線道路」と呼ばれ、その名の通りJR南武線と並行して走っています。
この通りを左に進むと溝の口駅、右に曲がると津田山駅方面となります。
南武沿線道路の溝の口駅方向の景色です。
ちょっと先に見えるガードが東急線で、その先に丸井とノクティが見えます。
少し前までは、溝の口駅前と、この栄橋交差点の間をつなぐ部分に道路はありませんでした。写真に写っている部分は十数年前の駅前再開発の際に作られた道路なのです。
溝の口付近の道路は道幅が狭く、歩道もない通りばかりなのですが、この駅前の通りは十分広く、歩道も広く取られています。
他の道も広くならないでしょうかね。
交差点を渡った左側にはかつて平瀬川と大山街道が交差していた「栄橋」の欄干の親柱と、その名残を伝える碑が建てられています。
もともとこの橋は平瀬川と根方堀(現在の二ケ領用水)が交差した場所にあり、溝口村上宿と下作延村片町の境にあったことから「境橋」と呼ばれてきたことと、溝口村と周辺の村々の繁栄を祈願して「栄橋」と命名されたものであろう、とされています。
この親柱は、先に記述しました再開発事業の工事に伴い掘り出されたもので、地域に伝わる貴重な歴史を後世に伝承するためにここに保存・展示しているのだそうです。
今回は、この栄橋交差点までにしましょう。
次回はさらに進んで南武線の向こう側まで行ってみたいと思います。
ご参考までに、今回のお散歩マップです。
【お散歩日 2013年9月10日】